余命宣告された胆管ガンの夫とともに

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和歌山県  K・Tさん(78歳、女性)

〔夫が胆管ガンで余命宣告される〕

 夫は仕事のストレスもあり体調不良を感じていたため、まとまった休みが取れた平成23年8月、夫婦で常駐し勤めていた山村留学センターの近くにあるA病院を受診しました。
 A病院の医師から「さらに詳しく検査をしてみる必要がある」と言われ、紹介していただいたB病院で検査したところ「胆管に1㎝角の胆石があり、ガンの疑いがある」という診断が出ました。
 改めて検査結果を持ちA病院で相談したところ、地域の総合病院であるC病院を紹介していただき、8月中旬に内視鏡を使った胆石の摘出手術を受けることにしました。
 そして、摘出した胆石を調べたところガンであることがはっきりしました。
 9月下旬、夫が特殊な血液型だったためD医大で胆管ガンの手術を行いましたが、D医大は遠方だったこともあり、12月にA病院に転院して胆管ステントの入れ替えを行ない、化学療法による治療をはじめました。
 この頃より、私たち夫婦が入会しているMOAのボランティアグループであるMOA健康生活ネットワーク(以下ネットワーク)のみなさんが、ほぼ毎日交代で岡田式浄化療法を施術してくれるようになりました。
 平成23年12月、A病院で最初の抗ガン剤治療を行っている時、勤め先で突然40度の高熱がでました。その場に居合わせた山村留学センターの子どもたちが通っている学校の教頭先生が救急車を呼んでくださり、A病院に運ばれましたが「処置が難しい」とのことでC病院で応急処置を受けました。
 その後、症状が若干落ち着きA病院に戻ってきた時、主治医から「身内の方に集まってほしい」と言われ「余命2か月半」と告げられました。
 告知は主治医の診察室で行われ、夫は「先生、自分は観念してました。なんでも言ってください。もうびっくりしません」と言って一番前で聞いていました。
 主治医は検査結果や画像に基づいて丁寧に説明してくれました。そして、私たちに「Kさんはすごい頑張り屋さんですよ」と言ってくれました。
 告知の後、夫が病院の待合室の椅子に一人で座り、私を待っていた姿と自分のお腹全体をさわりながら「僕のこの辺腐ってきてるのかな」と告げた時のことが今でも忘れられません。

〔山村留学センターで小中学生を預かる〕

 私たち夫婦は夫が運輸会社を定年退職した後、たまたま新聞に出ていたM町の山村留学センターのセンター長募集記事を見つけました。山村留学センターは行政の支援のもと、山間の施設に、不登校や家庭での生活に支障のある子どもたちを預かり、地元の学校へ通わせながら生きる力を育むことを目的としています。
 私たち夫婦は子どもがなかったこともあり、”子育てを通して社会の役に立ちたい”、また”川の流れているような自然が豊かなところで農業をしながら暮らしたい”という昔からの夢がありました。
 そこで山村留学センターに勤めることができたら、子どもたちには畑での農業体験や収穫した野菜を食べてもらいたい、できれば農薬や科学肥料を使わない自然農法でやってみたいなどの思いをレポートにまとめ、応募したところ、平成20年4月より4年間の任期で、夫婦で勤めることが決まりました。
 山村留学センターでは毎年4~6名の男女の小中学生を預かり、食事をはじめとする生活全般の世話と学校への送り迎え、そして、田植えや稲刈り、収穫などの自然体験の指導をしていました。
 預かった子どもたちのなかには夜中までゲームをやり、なかなか寝ない子や反抗的な子もいて大変でしたが、卒業式には私たち夫婦も保護者として参加することができたり、一晩中にらみ合ったような女の子が卒業後は遊びに来てくれるようになったりと楽しい思い出もあり、任期まで続けたいと思っていました。
 しかし、夫が余命宣告を受けたことや校長先生の勧めもあり、山村留学センターでの児童育成に区切りを付け、3年9ヶ月ぶりに和歌山市内の自宅へ戻り、平成24年1月より自宅近くのE病院で通院治療を開始しました。
 そして、自宅近くのネットワークでは療院と連携した浄化療法について話し合い、夫に取り組んでくれることになりました。

〔療院のアドバイスに基づく浄化療法〕

 平成24年2月下旬、私と夫はネットワークの皆さんと共にMOAかんさい健康センター(関西療院)へ行き、今後の生活やケアなどについてアドバイスをもらいたいと思い、T医師の診察と健康法部門の管理栄養士から栄養相談を受け、専任療法士の方より療院と連携した取り組みについてアドバイスいただきました。
 特に、岡田先生が考えられている病気の原因となっているものを、消滅させるイメージを持ちながら施術を受け、痛みやつらさなどは、原因と考えるものを自然に排除しようとする過程なので、我慢せずに訴え、家族やネットワークの方々もありのままを受け止めながら取り組むことなどお話していただきました。
 そして、専任療法士から抗ガン剤を投与する前後の浄化療法の施術について、4期(① 投与の初日~2日目 ② 3~5日目 ③ 6日目 ④ 次の抗ガン剤の投与前)に分けたプランを、人体図に分りやすく書いてくれました。
 夫も身体のみでなく、スピリュアルな面やこれからの生き方についてのお話に生きる力をいただき、療院の素晴らしさに感謝し、家族としても大きな励みとなりました。
 療院でのアドバイスの後、ネットワークの方から夫に「あなたは辛いことを隠しちゃいけない。しんどかったらしんどいと言って。なんでも言っていいんだよ」と言ってもらい、余命宣告された時期が近づき、やり場のない思いに怒りを現すこともありましたが、この言葉を聞いてホッとした表情になっていきました。
 その後は、病院での診察内容や朝起きた時の体調に加え、療院で示されたサポートプランに基づいた浄化療法を受けた後の気分や気持ちの変化などを、毎日ノートに書き留め、岡田先生の論文で確認していくようにしました。
 そして、このノートはネットワークの人たちと共有し、浄化療法の施術に来た方にも見てもらい、体調の変化や今までの症状、施術個所について確認できるようにしました。
 夫は抗ガン剤の投与にもかかわらず、次第に食欲も出はじめてきました。

〔余命宣告の期間を超えて〕

 余命宣告の期間を過ぎた、この頃になると夫は残された時間をどのように生きていくか、いろいろと考えるようになってきたと思います。病気になる前から浄化療法2級資格を取得して、熱心に施術を行っていましたが、改めて岡田先生の論文を学ぶなかで”人のために尽くしたい”という思いが強くなり、前にも増して熱心に行うようになっていきました。すごく前向きになっていきました。
 4月、わが家から歩いて20分ほどのところにお住まいの膵臓ガンの方に、浄化療法をするため、夫と私は昭和53年に結婚した当時、二人で神社に植えた満開の桜並木の下を、いろいろな話をしながら歩いて行きました。帰りには療法士として浄化療法をすることができるありがたさと喜びを語っていました。
 夫は『感謝が感謝を生み、不平が不平をよぶとは正に真理だ。常に感謝をしている人は自然幸福者となり、常に不平不満や愚痴を言う人は不幸者になるのは事実だ』『我と執着心を取る事である。私はこの事を知ってから、出来るだけ我執を捨てるべく心掛けており、その結果として、第一自分の心の苦しみが緩和され、何事も結果が良い。「取越苦労と過越苦労をするな」という事があるが、良い言葉である』などの論文を読んで、生かされていることへの感謝と一人でも多く施術させていただきたいとの思いから、同じような病気の方をお見舞いし、夫婦で浄化療法をさせてもらうようになりました。
 そして、夫とともに人に尽くす生活ができることは、本当に嬉しいことだと思うようになっていきました。
 また、ネットワークの方から「旦那さんは奥さんにすごく感謝しているのよ」と言われました。そんな思いからか体が弱っているのに、私が夜中にふと目が覚めると夫が浄化療法をしてくれていたことには、思わず涙が出ました。
 そして、山村留学センターで預かった子どもたちから、体を案じて連絡をもらった際に「山村留学センターで子どもを育てていろんな大変なこともあったけども、やっぱり行ったことに後悔はない。子育てさせてもらって良かった」と言い「普段のいろいろなことに対しても『ありがとう』という感謝の言葉が自然とわき出るようになってきた」とも言っていました。
 6月下旬にはMOAかんさい健康センターで健康づくりセミナーをしてもらいました。自然食によるお料理をはじめ、お茶やお菓子もいただくことができ、岡田式健康法を満喫することができて大変癒されました。
 結果的にこの療院での食事が、きちんと食べた最後の食事となりました。甘いものがあまり好きではない夫でしたが、出していただいた和菓子も全部食べてしまいました。この時、夫がいけたお花の前で二人の写真を撮ってもらいましたが、すごく嬉しそうな顔をしていました。夫は療院に行くことを本当に楽しみしていました。

〔夫を看取って〕

 療院から戻って6月28日に、E病院に受診に行ったところ「このまま入院されてはどうですか」という話になりました。それまで夫は「僕は入院しない」と言っていたのですが、義弟の説得もあり、翌日から入院することになりました。
 そして、この入院を境に病室で眠っている時間が長くなりはじめ7月7日、夫は眠るように旅立ちました。
 夫は私より8歳年下で、結婚する時「絶対に先に死なへんから、8歳年上なんていわんといて」と言ったのに、その約束を守れず、私を残して死んでしまうことを一番気にしていました。
 しかし、私たち家族に対するネットワークのみなさんの姿や、その中のお一人から言われた「私に任せておいて、奥さんのことはみんなで支えていくから」との言葉に、きっと大丈夫だと感じてくれたのではないかと思います。
 夫は私に向かい最後に「あとはおまえの好きなように生きてほしい」と言葉を残してくれました。
 夫が亡くなったことは悲しいですが、療院やネットワークの人たちが、まるで家族のようにつらい時、大変な時にしっかりと寄り添い支えてくれたおかげで、精一杯のことを夫にしてあげることができたと感じています。悔いはありません。とても満足しています。
 そして、これからは夫がそうであったように、感謝を持って、人に尽くしていくことを、ネットワークのみなさんと一緒に精一杯、続けて行きたいと思っています。

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