自殺を考えるほどの家庭の悩みが解決する

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島根県  O・Rさん(57歳、女性)

〔家庭の苦しみを抱えている人の支えになりたい〕

 平成5年、当時高校生の息子がオートバイで事故を起こしました。まだ免許を取ったばかりで、運転ミスから車に衝突してしまい、弾き飛ばされてしまったのです。
 病院に運ばれた後、外傷も少なく意識もしっかりしていたのですが、次第に血圧が下がり始め、肝臓が破裂していることが分かりました。緊急手術をしましたが、病院側からは「かなり出血していて、開腹はしたもののどうしようもない状況」と言われました。
 しかし、日本で初めて生体肝移植に取り組んだという医師が近くの医大に勤めておられるとのことで、病院が連絡を取ってくれました。その医師は、事情を聞くとすぐにタクシーを使って20分で駆けつけてくださったのです。立ち会ったほかの医師から話を伺うと、「神業と言ってもいいほどの手術」が行われて、無事成功したそうです。
 息子は集中治療室に入り、2週間ほど目を覚ましませんでした。体中が管だらけで、私は家には帰らずに、看護師から「あなたが倒れてしまう。帰ってください」と怒られても、ずっと付き添っていました。MOA健康生活ネットワークの方々も毎日お見舞いに来て下さり、浄化療法を施術していただいたことは、本当に感謝しています。
 事故から約2ヶ月後、無事息子は退院することができました。現在は結婚をして、子どもも授かり幸せに暮らしています。
 息子は生死をさまよいましたが、九死に一生を得ることができました。病院の対応やネットワークのみなさんには心から感謝しています。この感謝の思いから、今度は私が家庭の苦しみを抱えている人の支えになりたいと考えるようになりました。

〔Tさんとの出会い〕

 平成11年ごろだったと思います。婦人会の副会長のAさんからある日、「今、友だちのTさんからいろんな悩みを打ち明けられているのだけれど、ちょっと大変な内容なのよ。あなたも仲間になってもらえない?」と相談されました。
 1週間ほどしてから、Aさんと一緒にわが家に来られました。その日、Tさんは悩みを話そうとせず、お茶を飲みながら世間話をした後に帰られました。帰り際、私は「何かあったら明日からでもおいでなさい。つらいなら毎日でもいいのよ」と声をかけました。すると次の日からTさんは毎日のように来られました。
 うつむき、涙顔で話すTさんの悩みの内容に驚きました。あまりにも壮絶な人生と厳しい状況に置かれていて、どうしてあげたらよいのか戸惑いました。実家の家族のこと、お義父さんやお義母さんのこと、親戚関係のことなど、人間関係で大変つらい思いをされていて、当時3歳の息子さんを置いて自殺することも考えたそうです。
 Tさんは結婚されて、この町に嫁いでこられました。小さな町ですからいろいろな人の繋がりができていて、付き合いが難しいのです。Tさんは友だちを作る時、その人が地域やほかの家とどう繋がっているのか分かっていませんでした。そして、“この人は心を許せる”と思って家族や親戚の人間関係についての悩みを相談するのですが、2、3日もすると、そのことが家の人にも親戚にも知られて責められてしまう。時にはTさんが町の外から嫁いできたということで執拗に攻撃されることもあり、ついには人間不信に陥ってしまったのです。
 私は、Tさんと信頼関係を築くために、まず聞き役に徹しました。Tさんは、お茶を飲みながら悩みや愚痴を話し、時間がくると「今日もありがとうございました」と言って帰っていかれました。その繰り返しが2年ほど続きました。
 話を聞いていると、彼女は花が好きということに気がつきました。そして、Tさんが来る日には、なるべく庭に咲いている花を一輪飾るようにしました。すると、Tさんも喜んでくれて、ご自宅の庭に咲いた花を持ってきてくれるようになりました。
 こうした関係を続けているうちに、お互いに信頼が高まり、何でも話し合える関係になりました。
 しかし、私は相談を受けても解決できる方法が頭に浮かんできませんでした。しかも、この話を誰にも相談できませんでした。もし誰かに話して広まったりしたら、Tさんは私に裏切られたと思い、もっと人間不信に陥ってしまいます。ですから、私は夫にさえ言えませんでした。次第に私自身も“どうしたら解決できるのだろう。私は何をすればいいだろう”と悩むようになりました。

〔きっかけとなった「感謝」〕

 そのころ、Tさんの悩みを解決するきっかけがあればと思い、答えを求めるように岡田茂吉先生の本を読み始めました。しばらく読んでいると、ふっと“そういえばいつも愚痴を言っている人だな”と思いました。Tさんが誰かに感謝しているという話を、この2年間、一度も聞いたことがないと気づきました。Tさんは“周りの人たちがみんな悪い”“自分よりもほかの人に問題がある”と思っているようでした。
 ある日、私は「感謝」の本をTさんに見せ、「これをちょっと読んでみて」と勧めました。「常に感謝をしている人は自然に幸福者になると書いてあるけどどう思う?人間は得てして反対のことをやってしまうのよね」、「不平を言うからまた不幸が重なってくるということもあるかもしれないわよ」と投げかけてみました。するとTさんは「その通りだね」と答え、しばらく読み続けていました。そして「いい本持っているんだね」と言ってくれました。私は「いい本でしょ。私の虎の巻で、困った時は読んでいるの」と言いました。
 “ここから出発していけばいいんだ”。何となく答えが見えた気がしました。
 Tさんの実のお母さんは、平成7年に亡くなっていますが、その看病はご主人と二人でされたようです。でも、話を聞いていると、Tさんはご主人が看病をしたことを当たり前のように思っていましたので、私は「それは違う」と言いました。「あなたのお母さんとご主人はもともとは他人なのだから、世話をしてくれたことに感謝をすべきじゃない?」と言いました。「感謝もせずに、あなたがご主人の家族の愚痴ばかり言っていると、『こっちはきちんとお義母さんを看病したのに。何だよ』と考えてしまうのではないかしら。まずご主人に感謝することが大切だと思うわ」と伝えました。

〔「ありがとう」の言葉で家庭が変わる〕

 実は、Tさんは結婚して2年目に一度流産していますが、その原因は、妊娠中でも無理に働かせたお義母さんのせいだと思い込んでいました。そして、周りの家族や親族が全て悪く見えていたそうです。でも、「感謝」ということを意識した時、お義母さんがTさんの息子さんを宝物のように大事してくれていることに気づいたのです。“私は嫌われているかもしれないけど、子どもは可愛がられている”と。そういうことから、お義父さんやお義母さんの良いところが見えてきたそうです。
 それからしばらくしたある日、お義母さんに対して「ありがとうね」という言葉が出たと聞きました。またある日は、お義母さんがガラス越しにTさんに「ありがとう」と言われたそうです。Tさんは「お義母さんに感謝されることなんて絶対ないと思っていた」と言い、「ありがとう」と言われたことを喜んでいました。
 それからTさんは、目が不自由なお義母さんにお茶を出す時も、ただ出すだけではなくて「はい、おばあちゃんお茶はここだよ」とか、食事をよそって「おばあちゃんの大好きなうどんをお碗にいっぱい入れたからね」と言葉をかけて渡すようになったそうです。するとお義母さんの態度もどんどん変わったそうです。また、目の不自由なお義母さんと、耳が不自由な叔父さんの身の回りの世話をしていたお義父さんも、Tさんが協力してくれるようになったので、Tさんへの接し方が変わったそうです。
 だんだん家の様子が変わって、以前では考えられないほど家庭が良くなってきたとのことで、Tさんは「お蔭さまで家庭がまったくと言っていいほど変わりました」と感謝していました。
 またある日、Tさんから連絡がありました。絶縁状態だったTさんの実家のお姉さんから「みんなで会おうか」という電話があったのだそうです。「今まで、私が悪かった。だから会おう」と言ってきたそうです。そして、お寺でお墓参りをして食事をしたそうです。Tさんは「こんな日が来るなんて絶対ないと思っていた」と話していました。
 次第に元気を取り戻したTさんは、息子さんの小学校入学を機に、同じ年齢のお子さんを持つお母さんたちと「子育てネットワーク」を立ち上げて、工夫を凝らした陶芸やリース作りなどの活動をするようになりました。
 平成16年、私は町の文化祭でフラワーアレンジメントを頼まれましたので、お花が好きなTさんを誘って一緒に出品しました。その日、展示を見た教育委員会の方から「学校でもアレンジメントの勉強会があるのでお願いできませんか」との話がありました。その次の年には、小学校の卒業式や入学式の大きな花のいけこみをして欲しいという依頼がありました。以来、ずっとTさんと2人でやっています。

〔Tさんの手記 -私を変えたOさんとの出会い-〕

 私は子どものころに小児麻痺になり左半身が不自由です。右足だけで体を支える必要があり、長く正座もできません。また、肺の病気も患い、片方は摘出しています。
 体が弱かったため、人とうまく付き合えず、若いころから人に頼ることができずにいました。人に頼れない分、好きだったお花に頼るようになり、自分の気持ちをお花に託してプレゼントすることもよくありました。
 平成4年、39歳の時に結婚をして、この町に嫁いできました。家には舅、姑と叔父の3人がいて、5人での生活でした。姑は両目とも不自由でした。
 平成6年4月、最初の子どもを身ごもった時、姑に言われるまま田んぼの仕事をしたのですが、その夜、流産してしまいました。自らの無知と姑への憎しみ、また、慣れない土地での生活からくるストレスで心はすさんでいきました。夫は本当に良い人ですが、両親に対しては何もしてくれることはなく、頼ることもできずにいました。
 平成8年3月に長男を出産しました。しかし、つらい状況は変わらないので、人生を前向きに考えられなくなり、子どもが3歳になった平成11年ごろでしたか、“このつらさから逃げるには死ぬしかない”と思い、子どもを残して裏山で死ぬつもりで家を出ようとしました。玄関まで出た時に、近所の友だちが婦人会の回覧板を持ってきたので、その場を救われました。その友だちが、しばらく私の話を聞いてくれました。そしてある日、その方がOさんを紹介してくれました。
 Oさんのお宅に伺うと、いつも部屋にお花を飾って待っていてくれました。私もお花は好きでしたが、最初は心が病んでいたので、お花を見ることもできないし、いけることもできませんでした。
 相談する中で、Oさんに感謝することを勧められ、「こうすればいいんじゃない」などとアドバイスを受けたことがありますが、「そうは言っても」と反発することもあり、反省することもありました。次第に、Oさんの答えは、以前に友だちに相談していた時の答えとは違うことに気づきました。“今まで自分に関わってきてくれた人とOさんは違う”と。Oさんになら何でも話せるという安心感と信頼感が芽生えてきました。そして、悩みや迷いがある時はOさんに相談すれば良いという思いになりました。

〔Tさんの手記-Oさんをお手本にして-〕

 また、Oさんのご主人に対しての言葉づかい、息子さんとの会話する時の心地良さを感じました。自分もOさんのようになりたいと思いました。こんな出会いは人生の中で初めてでした。いつしか、Oさんの家に行く時には、庭に咲くお花や、裏山に咲くお花を持っていくようになりました。私の持っていくお花を本当に喜んでくださり、大切にしてすぐに家中にいけてくださいました。その姿に感動し、Oさんの喜びが、いつしか私の喜びにもなってきました。
 子どもが小学校に入ると、近所の子どもをわが家に連れてくるようになりました。そうした子どもたちが集う場を提供しようと、近所のお母さん方6人と子育てサークルを立ち上げました。公民館をお借りして、いろいろなことを子どもたちに教えたり、一緒に勉強したりするようになり、私も“次は何をしようか”、“何を準備しておこうか”と、家に閉じこもることが少なくなった分、気持ちが前向きになってきました。
 Oさんに出会っていなければ、今ごろ、私はこの世にいなかったと思います。Oさんがお花のインストラクターの研修で箱根から帰ってきて、感動した体験談を話してくださった時、私も心が動かされました。また、その時に受けた浄化療法で体が楽になったことも感じたことから、平成17年3月にMOA会員になりました。それ以来、精神的に平安が得られ、愚痴が出なくなりました。
 また、Oさんが箱根のお土産にお抹茶を買ってきてくださったことがありましたが、息子は抹茶が好きで、それ以来、息子は自ら毎朝抹茶を点て姑に出すようになりました。息子が点ててくれることが本当に嬉しいらしく、姑の様子も以前とは変わってきています。Oさんと出会い、相手の立場に立って考えることが幸せに向かう心の持ち方だと気づかせていただきました。自分の目を閉じて暗やみの世界を体感することで、この世界で何年も生活している姑の気持ちを理解することができました。
 Oさんの、家族を大切に家庭を基本にしていく姿は、私のお手本です。私も地域の会合や文化活動などで出かけることが多いのですが、以前ですと、帰ってから家のことをするという感じで、帰りの時間を気にしていましたが、今は、Oさんに見習い、家のことをきちんとした上で、姑たちに一声かけ外出するように努めています。
 Oさんは、本気で私を世話してくれました。そのことが私を変えてくれた元になりました。Oさんには、日々感謝の気持ちでいっぱいです。

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