適応障害からの学校への復職

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沖縄県  K・Rさん(57歳、女性)

〔適応障害と診断される〕

 平成17年、私はO中学の1年生のクラスを受け持っていました。進級も間近となった3月中旬のことでした。クラスの生徒が、他のクラスの同じ部活動の友だちとトラブルになって、ナイフが使われる事件が起こりました。幸いにして刺された生徒は命に別状はありませんでしたが、そのことで2週間程、毎晩12時ごろまで対応に忙殺されました。
 当事者の生徒たちは2年に進級することになり、私はまた1年生をみることになりました。そしてクラス分けの場で学年主任から、「ちょっと難しい子を扱ってくれないか、受け持ってくれないか?」という話がありました。「指導する時は一緒にやるから」ということでしたが、“去年も難しい子を扱ったのに、またですか?また難しい子をあてるのですか?今年は配慮してくれないのですか?”と思ったら、急にむなしい気持ちになりました。そして心の中に、“何でもみんな私に押しつけて”という周囲に対する不信感も湧いてきました。実際に、新1年生を受け持ってみると、まだ疲れも抜けていないし、“手におえないなあ”という気がしました。
 新学期が始まって1ヶ月位してから、問題を起こした生徒が、元気よく伸び伸び過ごしているのを見た時、何か急にドッと疲れが出てきました。
 ゴールデンウィークを迎えて、その間に疲れもとれるだろうと思っていました。
 しかし、ゴールデンウィークが明けても、疲れが取れないどころか、家族とも顔を合わさないような状態になりました。わが家は教職にある夫と高校生の二男と3人で暮らしていましたが、家族が出勤し、学校へ行って、一人になった時にトイレへいったりしました。眠れませんし、食欲も出てきませんでした。何か口にしても戻してしまうので、体重も相当落ちました。外出ができず、庭にさえも出られませんでした。夫も心配しました。
 それで、病院へ行くと医師からは「適応障害*1」と診断されました。
 その当時は、教頭先生の言うことはかろうじて信用できました。教頭先生は女性の先生で、前の学校でも一緒でした。生徒のトラブルを一緒に乗り切ったということで、“ああっ、信頼できる”って思いました。それと、医師の言うことと、夫の言うことぐらいで、あとは誰も信用できないという思いにとらわれていました。

* 1 適応障害=適応障害とは、社会環境にうまく適応することができず、さまざまな心身の症状があらわれて社会生活に支障をきたすものをいいます。やがては人間関係や社会的機能が不良となり、仕事にも支障をきたし、引きこもってうつ状態に陥ることが多いと言われています。

〔休職する〕

 5月から休むことになりましたが、病休の届けを提出し、“休める”と思った途端に気持ちが楽になりました。毎朝、「年休ください」って学校に電話することに苦痛を感じていましたから。“学校に行かにゃいかん”と思うと、体が拒否するのです。学校に書類を届けにいったとき、かろうじて事務室まで来たのに、これ以上一歩も前に進めない、いろんな人が声をかけるけど、拒否してしまう。体がいうことをきかないのですね。不登校生徒の「学校に行けない」「教室に入れない」気持ちが、本当によくわかりました。
 病休届けを提出してから、少しずつ睡眠時間も長くなり、1ヶ月もすると食欲も出てきました。しかし、発病以来すっかり自信をなくしてしまい、何をする気力も湧かず、ただボーとして、毎日が過ぎていきました。
 3ヶ月の病休でも症状がよくならないので、休職することになりました。休職の書類を学校に届けに行ったときにCさんに会いました。そのとき教頭先生が「Cさんのお家へ行ってごらんなさい」と勧めてくださいました。Cさんは学校の「心の教育相談員」として不登校の生徒を自宅に招いて更正させるなど、献身的にボランティアをしている方でした。学校でよくお見かけしましたが、一度しか会話をしたことがありませんでした。戸惑いはありましたが、“教頭先生がいいって言うなら”と、Cさんのお宅に伺いました。最初は挨拶をしただけでした。「こんにちは」「気楽にしてよ」っていう感じでした。それからあまりはっきりした記憶がありませんが、少し世間話をしたのだと思います。「また来てくださいね」という感じでした。

〔沖縄療院に案内していただく〕

 しばらくして、Cさんから電話がかってきて、「一緒にお茶しませんか?いかがですか?」と誘われました。お茶と言われたので、喫茶店にでも行くのかと思っていましたが、連れていってもらったのが沖縄療院でした。当時、私の状態が良くなかったので、どこへ行くにも抵抗がありましたが、ここでは比較的、抵抗を感じることがありませんでした。
 気軽に声をかけていただいたからなのか、施設の雰囲気なのか、職員のみなさんの対応が良かったのか、よくわかりません。でも当時の私は、それらの何か一つでも気に入らないと拒否反応を起こしていたと思います。
 別のクリニックへ通っていましたが、“あっ、ここにはクリニックもあるんだ”ということがわかって、院長に症状を伝えて診察していただいたと思います。
 その後、茶室で茶の湯といけばなの体験をさせてもらったら、急に自分の若いころの楽しかった思い出が蘇ってきて、涙が出てきました。京都の大学時代、私はいけばなを習っていましたし、ルームシェアした人たちが、茶の湯やいけばなを習っていたので、時々お抹茶を飲ませてもらったりしていました。
 茶の湯といけばなを体験した後、“早く元気になって仕事もして、茶の湯やいけばながやれたらいいなあ”と思いました。休職からマイナス思考ばかりだったのに、はじめて前向きな気持ちが芽生えた瞬間でした。

〔光輪花クラブでお花を習う〕

 「私にお花を教えてね」とCさんにお願いしたら、「一緒に習いましょう」って言ってくださいました。先生はMOA美術文化インストラクターのIさんでした。Cさん宅で2~3回行って、その後、学校のクラブハウスで行うことになりました。最初は、いけばな体験ということでした。半年ぐらいしてから正式に光輪花クラブといういけばな教室に替わったと思います。
 私は花が好きで、以前から“大学生時代のいけばなの先生と似たような教え方の先生がいたら習いたい”と思っていましたが、仕事の関係で時間の余裕が持てずにきていました。Iさんの教え方はまさにそんな感じでした。「自分がいけたいように、いけてごらんなさい」「一番どうしたいの?」「こうしたいんだったら、こっちをちょっとこうすれば」ぐらいで。Iさんは、私の個性を尊重しながら、少しずつ少しずつ丁寧に教えてくれました。

〔いけばなを習うことで、職場復帰につながる〕

 光輪花クラブに通いはじめてから、次第に体の調子が良くなってきました。花をいけると心が晴々として気分も良くストレスが軽減しました。花をいけていると元気が出ます。とくに花を切ったときに、気分がスッとします。
 それと上手くいけられたときですね。当時の私は“自分はダメな人間だ”という自己否定の思いでいっぱいでした。それが症状の一つなんでしょうけれど、自分に自信をなくしていました。花をいけて、みなさんに褒められると、自分を認めてもらったような気がして、少しずつ自信を取り戻せたように思います。
 CさんやIさんに出会って、最初は、“何で他人のために、こんなに時間を割いてやるのかなあ?”って思ったりしました。今振り返ってみて、言葉に表せないくらいありがたい存在でした。お二人とも休職中の私には、決して無理をさせませんでした。よく、「ここまで来たから、もうちょっとできるだろう」っていう人が多いのです。そういう押しつけられるようなことがありませんでした。両方から伴走車のように寄り添ってくださったのです。お互いの思いや考え方の違いがあるでしょうに、何でも聴いてくれて、私の考えを否定しない、包容力ですね。それでいて明るいのです。
 もうひとつ、やはり家族の存在が大きかったと思います。いけばなを習った後は、私が嬉しそうにしているので、夫も喜んでくれ、「また行っておいで」と声をかけてくれます。私の状態に合わせて、色々と心配をし、常に温かい眼差しで見守り、支えてくれました。
 これまでの私は“自分がもっともっと努力しないといけない”という思いが強かったんだと思います。病気になって、一人ではどうすることもできないことがあると実感しました。気がつけば、本当に多くの方々の支えがあって、“一人ではないんだ”ということが実感できたのだと思います。CさんやIさんやそのお仲間に出会うことで、私の人間不信は徐々に薄れていったように思います。
 こうして平成18年3月まで11ヶ月の休職期間の後、職場に復帰することができました。

〔“良かった探し”ができるようになる〕

 光輪花クラブでお花を習ってみて色々と気づかされることがあります。花にはそれぞれ特徴、個性があり、その花にしかない美しさがあります。花をいけることは、それを見つけて引き出すことだと思います。人は、それぞれに良い所も悪いところも持ち合わせていますが、これまでの私は“人の良いところを見逃していたのではないか”と、花をいけながら感じることがありました。例えば、いけばなでは日面(表)は前に出して、日裏を後にしていけます。だから、“人の欠点を見るのではなく、良いところを見よう”ってふうに感じます。
 光輪花クラブでお花の良い面を探すように、生徒を見るときにも“この子の良いところは何かなあ”って、“良かった探し”ができるようになりました。
 今、市の教育委員会の教育研究所に来て、半年になろうとしていますが、ここに来ることが決まった時に、受け持っていた生徒たちから手紙をもらいました。ある女子生徒は「先生の良いところは、一人ひとりを見て、対応している」って書いてくれました。嬉しかったですね。
 CさんやIさんから支えられたように、“私も困っている人に同じようにできたらなあ”って思っています。だから、若い教職員から話しかけられた時には、極力聞くようにしています。「あとでね」って言わないように、自分の仕事はあとでもできるから。自分のペースでなく相手に合わせるところからですね。
 何か悩んでいる人は声をかけてくるんですよ。それで「うん、うん」って聞いていたら、自分で納得していきますね。“あれっ何だったんだろう?”って。「話しかけやすい」「しゃべっていて楽しかった」「あなたとしゃべったら楽になる」って。大抵、答えは本人が持っているものですから。

〔感謝の気持ちをいつも忘れずに〕

 これも謙虚さや感謝の気持ちがなければ、人の良さを見ることや、人の話に耳を傾けることの大切さに気づかないのです。Cさんから、よく「感謝の心が足りないよ」って言われて、“感謝してはいるけど”って思いながらも、確かに、足なりかったのでしょうね。CさんやIさんのお仲間に会って感心することは、ご主人や家族のことを褒める言葉をよく耳にすることです。普通、人が集まると、ご主人の悪口(愚痴)が出てくるものです。
 岡田先生*2の本を読むと、家族への思いとか、感謝について考えさせられます。夫に対しても、“家事はあまり手伝ってくれない”と、“もっとしてほしい”と欲張っている自分がありました。やってくれることに感謝して素直に受け止めればいいのに、ありがたいという思いに至らなかった。できないところの方が気になっちゃうのです。
 夫は「きみ、これ、できてないじゃないか」とは言わないのに、私は“もっとやってほしい”という、欲望というのはきりがないです。
 そうした自分の姿勢に気づくことができました。だから、“人に完璧を求めてはいけないかなあ”ということが、お花を習うことで自然に実感するようになりました。

*2 岡田茂吉先生 =MOAの創立者。光輪花クラブは流派の形式を取らず、MOA美術館の美術文化活動の一環として進められています。

〔美術文化インストラクターの資格は私にチャレンジする気持ちを植え付けた〕

 最近、自分のまわりが都合よく好転している、循環しているように感じます。また色々と周囲に起こってくることに対しても、“何か訳があるんだ、それが今は必要なんだ”というように捉えられるようになってきました。
 平成22年にIさんから美術文化インストラクターの資格試験を勧められ、12月に無事合格することができました。
 インストラクター資格に挑戦したのは、“より多くの人にお花にふれてもらいたい”“花を通して人生を楽しんでもらいたい”そういうお手伝いができればという気持ちもありましたが、私にとってはそれ以上に、“人生を前向きに捉えて、何事にもチャレンジしよう”という、その気持ちになれたことが重要だったように思います。
 Iさんに「もっと自信をもっていいのよ」「何かしないかって声をかけられたら“ハイ”と“イエス”しかないわよ!」と言われて、少しずつ自信がついたお蔭だと思っています。
 今、「教育研究所」で、“作文を子どもたちに楽しく書かせるにはどうすればいいか”という、マインドマップというものを使って、思考力をアップする研究を終了しようとしています。これも、市の教育委員会が、希望する教諭に専門研究の機会を与え、半年間、教育研究所に身を置く制度を設けており、これにチャレンジした結果です。
 今年(平成24年)、大学院に合格することができました。あと1~2年は教諭を続けるつもりですが、その後は大学院で、「子どもたちに楽しく文章を書かせるには」という、現在の研究をさらに深めていきたいと考えているところです。
 また、昨年は英検準2級に挑戦し合格しました。勉強したいと思ったのは、“英語で茶の湯やいけばなを外国の人に教えられたらいいなあ”って。それが今願っているゴールです。

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